なにも出来ないただのおばさんは可哀想か

こう見えても(どう?)実は私は性善説派なんですよ。
なのでことさら原罪を訴える派のクリスチャンの論はなかなか理解できなかったです。
性善説派なので、持ってうまれたものは善(よ)きものだと思ってます。
人は善きものを持って生まれてきてると思ってます。
善きもので構成されているはずの人が善くない言動の震源地となってしまうのはなぜか?
善くないものにまみれてしまうからです、善くないものの”せい”です。
善くないものの”せい”で”たまたま”善くないものに染まってしまってるけど、本来の自分は善きものなのだ、見失っているだけなのだ。
百歩ゆずって、己の存在が善きものでないところからスタートしたとして、それをいかに善きものにシフトチェンジしていくか、という考えもありだとしましょう。
が。
スタートがネガなものであると、どんなに立て直してもたやすく倒れがちです。
そうまでして「頑張った私!」をやりたいか(違。
本日の参考資料です。

結局30過ぎても自分で判断する力が乏しく唯一守ってくれた親が亡くなってからは本当にただの何も出来ないおばさんになってしまいました。結婚も出来ず友達もいなくてずっと親のせいだ…って言ってます。可哀想。

いや、ほんま可哀想なんやで!
自分で立つ機会を奪われて大人になってもうたんやで!
立つ力育んでもらえてないのに、大人になったから、って放り出されてすぐ立てるわけないやんね!!
立てる人もいる。いるにはいる。
でも、みんなが立てるわけではないです。
立つ力がある人を基準にしてしまうと、力がない人はすべからくダメジャッジをされてしまう。
そこに出てくるのが自己責任論です。
立つ力を育み損ねた人には、立つ力がないのは自分の”せい”ではないこと、本来の生まれもったリソースで力を育めていたなら何を獲得できているかの可能性を示してあげること、この2つが必要です。
立てないでいることにも気付けていなかったでしょう
立ちたいという気持ちにも蓋をしていたことでしょう
選択肢を奪われていたご自身をまずは労ってあげてください。
さっさと立てよ、オラオラ!と鞭打つのはまだ先でいいですよ。

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